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・中村天風先生は、1876年(明治9年)7月30日東京生れ 1968年(昭和43年)12月1日、92歳にて逝去。 ・墓所は、東京都文京区大塚の護国寺。 ・本名は、中村三郎。福岡県・立花藩主の末裔。 ・幼名は、午の年、午の日、午の刻生まれにちなんで 「三午(さんご)」と名付けられた。「天風」という号は 家伝の剣術随変流の型「天つ風」から名付けられた。
<プロフィール 幼年期~成人期・前期> ○3、4歳頃になると、自分は大名の子として生まれたのだということ が何となく分かったという。 ○5、6歳の頃、毎晩爺(立花鑑賢?)の晩酌の相手に呼ばれた。 その時、毎度「見よ、爺のこの額の傷を」「これは、真剣勝負の時に 得た傷じゃ、真剣勝負は腕じゃない、度胸だぞ、爺は腕は鈍かったが 度胸があった」という話を聞かされた。 ○7歳頃から腕白になったが、小さい時は余り腕白ではなかったと述懐 している。 華族となった一門の家に生まれたことから、おんば(乳 母)日傘で育てられ、日々の生活に段々窮屈さを感じ出したことも、 その行動に影響していると思われる。 ①1888年(12歳、明治21年)、文京区湯島小学校卒業。 卒業生名簿には、福岡県士族・中村三郎とある。 父の祐興は、小学時代も乱暴は絶えなかったし、天風自身が自立を求 めていたこともあり、友人・前田正名(薩摩藩)のつてで福岡の中学 修猷館へ入学させた。 ②13歳(1889年、明治22年)の時、熊沢蕃山の物語を読んで大きな感 銘を受けた。特に「憂きことのなほこの上に積もれかし限りある身の 力ためさん」の歌に心を動かされた。 当時贅沢三昧に暮らしていた天風は、「今のこの境涯で、いいわいい わで暮らしていることは、本当に罰当たりだ」と思うようになった。 ③15歳(1891年、明治24年)になると、大名華族の生活に嫌気がさし 「親のお陰で、こんな暮らしをしていたって何になるか」と思い、家 を出る決心をする。 そして、いきなり飛び出すわけにもいかないので、乱暴狼藉をして親 に愛想を尽かせてやろうと考え、もう手に余る乱暴を始めた。自分で も、織田信長の少年時代さながらであったと述懐している。 ○同年、投石事件。 修猷館の前を通りかかった福岡第24連隊の隊列に校庭から飛んでき た瓦の破片が当たったため事件となった。天風は、事件には関係なか ったが誰かが名乗り出ないと解決しないと判断して、自分がやったと 名乗り出たため営巣に入れられる。 父の祐興は、親友・安場保和(福岡県令、横井小南の門下生)に相談 し、その口利きにより天風は釈放された。 ○同年、柔道の試合に負けた相手校生との乱闘事件。 試合に負けた相手校生が復讐を企て、そのいきさつから相手が包丁を 持ち出してきたために、正当防衛ではあったが天風は相手を刺殺して しまう。そのため、修悠館を退学となる。 その後、父親の友人・前田正名の紹介で「玄洋社の頭山満」に預けら れることになった。 ④1892年(明治25年、16歳)、頭山満の薦めで、陸軍の軍事探偵・ 河野金吉中佐の鞄持ちとして、日清戦争前の満州から遼東半島方面の 金州城、九連城の偵察に随行する。 ・頭山満は、16歳の天風を評して「この青年は、度胸のあるところが キズに玉だ」と言って河野金吉に紹介したという。 ・頭山は、この時すでに天風の才能を見抜いていたのであろう。天風も また頭山を慕い、生涯恩師と呼ぶようになる。 ・頭山は、西郷隆盛に私淑し、自身は一国を動かすほどの影響力を持ち ながらも、玄洋社の社長になったことは一回もなく、また地位も名誉 も財産も持たない生涯を貫いている。稀有な人物の一人である。 ○満州へ出発の際、曹洞宗官長の「森田悟由禅師」から餞(はなむけ) の言葉を送られた。 ・悟由禅師は、「お前は、今すぐ死ぬのだということを、運命の中に持 っていることを覚悟しておれ、明日の日を夢見るな。たった今を本当 にベストを尽くせ。『臨終只今』これがお前にやる餞別だ」といった ・「臨終只今」とは、禅の言葉で、「今、臨終を迎えても悔いがない」 という覚悟で、一日一日、一瞬一瞬に生命を燃焼させていくことであ る。これは、人間は、いかなる場合にも、「臨終只今」の気持ちで生 きなければならないという正しい人間としての生き方を示した言葉で ある。〈天風は、この言葉を生涯忘れなかった〉 ⑤1893年(明治26年、17歳)。 遼東半島方面の偵察から帰った後、 学習院に入学するが教師に反抗してすぐに退学。その後、東京・神田 の「順天求合社」に入塾する。 ・「順天求合社」は、1834年(天保5年)福田理軒により大阪に創立さ れた和算塾「順天堂塾」に始まる。1871年(明治4年)東京・神田に 移転し「順天求合社」と改称。「順天求合」とは、自然法則に従い、 互いに真理を探究するという意味である。 ・この塾は、陸軍参謀本部が設けられて以来、卒業生を参謀本部の地図 課、測量課に多く送り込んでいる。また、日清戦争が開始されると、 支那語速成科、測量専修科、陸軍受験科を設けている。 ○その後25歳までは、各種の本にも記載がなく詳細は分からないが、 「玄洋社」で活動していたのではないかと推測される。玄洋社時代は その激しい気性から「玄洋社の豹」とあだ名された。 ⑥1902年(明治35年、26歳)12月9日、帝国陸軍参謀本部情報班員と して採用される。情報班員に採用されたのは、三千人の応募者の中か ら200人のみ、一年間訓練を受ける。 その内、戦争の役に立ったのは僅かに113人、更に戦後生きて帰った のは僅か9名であった。天風もその9名の中の一人である。 ⑦1903年(明治36年、27歳)、軍事探偵として満州に出発する直前、 福岡県久留米市出身のヨシ(19歳)と結婚。 ○同年、天風は、ハルビン方面を担当するスパイ活動に入る。コンビを 組んだ相手は、旧満州生まれ旧満州育ち、満州人さながらの風貌の 「橋爪」である。 ⑧1904年(明治37年、28歳)3月21日、ハルビン郊外の松花江に架か る鉄橋爆破の任務に就いた時、ロシアのコサック騎兵(黒竜江騎兵) に捕まる。 ・朝の5時に死刑宣告を受け、7時に断頭台に立った。この時、恐ろし いとも、情けないとも少しも考えなかった。死ぬことは何とも思わな かった。男一代の最後の名誉の時が来たんだなとしか考えなかった。 前日の夜は、明日死刑になることが分かっていたが、食事も全部食べ 夜もぐっすり眠れたという。 ・幸いにも、銃殺になる寸前に仲間の「橋爪」が手榴弾を投げて助けて くれたので死なずにすんだ。
<プロフィール 成人期・中期> 〇天風にとって、中年までの軍事探偵の生活は、本当に一番住みよい所 働きよい所だった。 ・軍事探偵の仕事には、不平不満もなく、ましてや不幸にも感じなかっ た。ただ「生甲斐のある男の仕事だなあ」という気持ちだけだった。 微力ながら、お国のために尽くそうという気持ちでいっぱいだった。 ・軍事探偵は、お国のためにしなければならないことだから、泥棒もし たし詐欺もした。また、重要な書類や地図類を手に入れるためには、 人殺しもした。この5年間に人を殺した数は、加藤清正以上に多いだ ろうという。だから、人から、「人斬り天風」と言われた。 ・当時の天風は、これらのことを大きな罪悪だとは考えていなかった。 お国のためにいいことばかりした人間だと考えていた。 ⑨1906年(明治39年、30歳)2月11日、日露戦争終了。その日に任務 を解かれる。同年、朝鮮総督府の高等通訳官を拝命。当時の統監は伊 藤博文であった。 ○朝鮮総督府に着任して三か月目に大喀血。 当時不治の病といわれた「奔馬性肺結核」に罹る。大喀血を38回も した。兄も弟も医者である。 兄は、北里伝染病研究所の細菌部長だ った。二人が、病を治そうと手を尽くしてくれたが治らなかった。そ して、ついに細菌学の権威・北里柴三郎博士から余命宣告を受ける。 ・天風は、命を助かりたいという気持ちより、毎日、瀕死の病からくる 形容できない、肉体の感ずる病苦の感覚に悩まされたと言って、次の ような体験を述べている ・いよいよ人生の全ページが終わろうとすると、不思議な現象が起こっ て来る。 眼が見えなくなり、耳がバカに聞こえて来る。 死に目が 近くなると、二間三間隔てていても、内緒話をしているのが聞こえる ようになる。だから、重病人のある家では、絶対に内緒話はしてはい けない。反対に、目は、目の前に人が来ても見えないが、いない人が 立っているように見える。 ○ある時、親友の一人に、オリソン・スウェット・マーデン著『如何 して希望を達し得るか』を勧められ感銘を受ける。 ○特に、その本の一番最初に書かれていた、「不幸にも、人々の多くは 人間の弱い方面のみを考えて、強い方面を考えない」という言葉に天 風は大きな喜びを感じた。 ・ちなみに『如何にして希望を達し得るか』には、次のような記載もあ る。「私たちの境遇は、私たちの心の力の引力の結果である。常に病 気を思ったり、それを気にしたりしていては、到底健全にして抵抗力 のある身体を作り上げることはできない。病気にかかっていない状態 を常に心に描かなければならない」と。 ・天風は、この人に教えを受ければ、多年の疑問も、朝日に溶かされる 氷のように解けてしまうだろうと思った。それで、いつ死んでも構わ ないから命のある限り、この人に会いに行こうと考えて、密航するこ とを決意する。 ⑩1909年(明治42年、33歳)春、横浜から上海に渡り、志那人とな って貨物船で渡米。 ・日本を出る時には5万円しか持って行かなかったが、アメリカで中国 人の華僑の金持ちの留学生から、代わりに「コロンビア大学」で勉強 してくれと頼まれたので、孫逸郎の名前で免状をとった。そのお礼に 日本から持って行ったお金の4倍くらいのお金をもらった。 ○ニューヨークに着くと直ぐに、「オリソン・スウェット・マーデン」 に面談した。 マーデンは、「まあ、とにかく、俺の本をそらでいえるほど暗記しろ 暗記するまで読め、そうすれば、自然とあの本に書いてあるような気 持ちになれる」と言うだけであった。
<プロフィール 成人期・中期~後期> ○次に、エジソンの神経衰弱を治したというので有名な、「カ―リント ン」に会った。 ・この人は、「アメリカ合衆国にも70、80の年老いた紳士や淑女が 多いけれども、あなたのように、心なんてものを考えている者はいな い。その折角考えている心に対して、何とも言えない尊敬を感じるか ら、その気持ちを失わずに尊く生きて下さい」と言って、尊い、尊い だけで、追い払われてしまった。 ○それで、もっと他の世界的な権威に会えば問題が解決できるに違いな いとの思いから、意を決して西欧へ渡る。 ○ロンドンに着くと、英国第一の哲学者「H・アディントン・ブリュー ス博士」の「神経系統と精神活動」の講習会を受ける。 ・彼は、「一番心の立て直しに必要なことは、思ってはいけないことは 思わないようにし、考えてはいけないことは、考えないようにするの だ。その秘訣は、忘れてしまうことだ」と言った。 ⑪1910年(明治43年、34歳)、ロンドンの日本商社の幹部から、ヨー ロッパ文化の中心であるパリ行きを勧められ、サラ・ベルナールを紹 介される。 ・天風は、ベルナール邸に寄宿する。 ベルナールは、その時65歳だ ったが、非常に若々しかったという。 ○この時期、ベルナールに勧められて、「カントの自叙伝」を読み感銘 を受ける。 ○リヨン大学のリンドラー博士には、「鏡を用いる自己暗示法」を教わ る。 ○ドイツでは、世界一の哲学者「ハンス・ドリュース博士」に会った。 ・天風は、ドリュース博士の説く「生気論」に影響を受けたが、「生命 力を強くするにはどうすればいいのか」は未解決のままだった。 ・博士は、この人に人生を尋ねれば、どんな事でも即座に応えてくれる と評判の高い人だった。 ・博士は、ドイツ人だから、たどたどしい英語で「それはお前のやって いることは、森の中に行って海の魚を捕まえるのと同じだ。出来ない 相談だ。 考えてごらん、人間が自分の心を、自分の思う通りに自由 にできれば、この世の中に哲学も宗教も生まれないではないか。 そ れを考えてみれば、そんな無駄な努力はしなさんな。それよりも、自 分のことは、自分だけでなんとか考えるのが、一番いいじゃないか」 と言った。 この答えは、早い話が、ダメだから死んでしまえという 言葉と同じだと思った。
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