中村天風研究会

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中村天風先生プロフィール

・中村天風先生は、1876年(明治9年)7月30日東京生れ
 1968年(昭和43年)12月1日、92歳にて逝去。
・墓所は、東京都文京区大塚の護国寺。
・本名は、中村三郎。立花藩主(福岡県)の末裔。
・幼名は、午の年、午の日、午の刻生まれにちなんで
 「三午(さんご)」と名付けられた。「天風」という号は
 家伝の剣術随変流の型「天つ風」から名付けられた。

 <プロフィール 成人期・中期>
〇天風にとって、中年までの軍事探偵の生活は、本当に一番住みよい所
 働きよい所だった。
・軍事探偵の仕事には、不平不満もなく、ましてや不幸にも感じなかっ
 た。ただ「生甲斐のある男の仕事だなあ」という気持ちだけだった。
 微力ながら、お国のために尽くそうという気持ちでいっぱいだった。
・軍事探偵は、お国のためにしなければならないことだから、泥棒もし
 たし詐欺もした。また、重要な書類や地図類を手に入れるためには、
 人殺しもした。この5年間に人を殺した数は、加藤清正以上に多いだ
 ろうという。だから、人から、「人斬り天風」と言われた。
・当時の天風は、これらのことを大きな罪悪だとは考えていなかった。
 お国のためにいいことばかりした人間だと考えていた。
⑨1906年(明治39年、30歳)2月11日、日露戦争終了。その日に任務
 を解かれる。同年、朝鮮総督府の高等通訳官を拝命。当時の統監は伊
 藤博文であった。
○朝鮮総督府に着任して三か月目に大喀血。 
 当時不治の病といわれた「奔馬性肺結核」に罹る。大喀血を38回も
 した。兄も弟も医者である。 兄は、北里伝染病研究所の細菌部長だ
 った。二人が、病を治そうと手を尽くしてくれたが治らなかった。そ
 して、ついに細菌学の権威・北里柴三郎博士から余命宣告を受ける。
・天風は、命を助かりたいという気持ちより、毎日、瀕死の病からくる
 形容できない、肉体の感ずる病苦の感覚に悩まされたと言って、次の
 ような体験を述べている
・いよいよ人生の全ページが終わろうとすると、不思議な現象が起こっ
 て来る。 眼が見えなくなり、耳がバカに聞こえて来る。 死に目が
 近くなると、二間三間隔てていても、内緒話をしているのが聞こえる
 ようになる。だから、重病人のある家では、絶対に内緒話はしてはい
 けない。反対に、目は、目の前に人が来ても見えないが、いない人が
 立っているように見える。
○ある時、親友の一人に、オリソン・スウェット・マーデン著『如何
 して希望を達し得るか』を勧められ感銘を受ける。
○特に、その本の一番最初に書かれていた、「不幸にも、人々の多くは
 人間の弱い方面のみを考えて、強い方面を考えない」という言葉に天
 風は大きな喜びを感じた。
・ちなみに『如何にして希望を達し得るか』には、次のような記載もあ
 る。「私たちの境遇は、私たちの心の力の引力の結果である。常に病
 気を思ったり、それを気にしたりしていては、到底健全にして抵抗力
 のある身体を作り上げることはできない。病気にかかっていない状態
 を常に心に描かなければならない」と。
・天風は、この人に教えを受ければ、多年の疑問も、朝日に溶かされる
 氷のように解けてしまうだろうと思った。それで、いつ死んでも構わ
 ないから命のある限り、この人に会いに行こうと考えて、密航するこ
 とを決意する。
⑩1909年(明治42年、33歳)春、横浜から上海に渡り、志那人とな
 って貨物船で渡米。
○ニューヨークに着くと直ぐに、「オリソン・スウェット・マーデン」
 に面談した。
 マーデンは、「まあ、とにかく、俺の本をそらでいえるほど暗記しろ
 暗記するまで読め、そうすれば、自然とあの本に書いてあるような気
 持ちになれる」と言うだけであった。
○次に、エジソンの神経衰弱を治したということで有名な、「カ―リン
 トン」に会った。
・この人は、「アメリカ合衆国にも70、80の年老いた紳士や淑女が
 多いけれども、あなたのように、心なんてものを考えている者はいな
 い。その折角考えている心に対して、何とも言えない尊敬を感じるか
 ら、その気持ちを失わずに尊く生きて下さい」と言って、尊い、尊い
 だけで、追い払われてしまった。  
○アメリカで中国の華僑の金持ちの留学生から、代わりに「コロンビア
 大学」で勉強してくれと頼まれたので、孫逸郎の名前で免状をとった
 そのお礼に、日本を出る時には5万円しか持って行かなかったが、そ
 のお金の4倍くらいのお金をもらった。
○それで、もっと他の世界的な権威に会えば問題が解決できるに違いな
 いという思いが湧いてきて、意を決して西欧へ渡る。
○ロンドンに着くと、早速、英国第一の哲学者「H・アディントン・ブ
 リュース博士」の「神経系統と精神活動」の講習会を受けた。
・彼は、「一番心の立て直しに必要なことは、思ってはいけないことは
 思わないようにし、考えてはいけないことは、考えないようにするの
 だ。その秘訣は、忘れてしまうことだ」と言った。
・それで、「私は、現在胸に病を持っており、明け暮れ絶えず苦痛が神
 経を冒して、忘れろと言われても、簡単に忘れられるものではありま
 せん」と言うと、「そう言っている内はダメだ。忘れられるまで、忘
 れることに努力しろ」と言われた。
⑪1910年(明治43年、34歳)、ロンドンの日本商社の幹部から、ヨー
 ロッパ文化の中心であるパリ行きを勧められ、フランスの大女優サ
 ラ・ベルナールを紹介される。 
・パリに着くと天風は、ベルナール邸に寄宿する。ベルナールは、その
 時65歳だったが非常に若々しかったそうだ。 
○この時期、ベルナールに勧められて、「カントの自叙伝」を読み感
 銘を受けたという。
 《「カントの自叙伝」は、インターネットの国立国会図書館の調査記
 事によればどうも存在しないようだ。誰かが書いた「カント伝」か、
 或いは別人の自叙伝かもしれない》
○フランスでは、リヨン大学のリンドラー博士に「鏡を用いる自己暗
 示法」を教わる。
 《「自己暗示法」は、心身統一法の中に「潜在意識の積極化法」とし
  て取り入れられている。》
(中村天風著作より適宜抽出)




















 <プロフィール 成人期・中期2>
○ドイツでは、世界一の哲学者「ハンス・ドリュース博士」に会った。
・博士は、この人に人生を尋ねれば、どんな事でも即座に応えてくれる
 と評判の高い人だった。
・博士は、ドイツ人だから、たどたどしい英語で「それはお前のやって
 いることは、森の中に行って海の魚を捕まえるのと同じだ。出来ない
 相談だ。考えてごらん、人間が自分の心を、自分の思う通りに自由に
 できれば、この世の中に哲学も宗教も生まれないではないか。それを
 考えてみれば、そんな無駄な努力はしなさんな。それよりも、自分の
 ことは、自分だけでなんとか考えるのが、一番いいじゃないか」と言
 った。この答えは、早い話が、ダメだから死んでしまえという言葉と
 同じだと思った。
・天風は、ドリュース博士の説く「新生気論」に影響を受けたが、「生
 命力を強くするにはどうすればいいのか」は未解決のままだった。
○20年後に天風は、帝国ホテルで心身統一法の講義をしている時に、
 後藤新平伯爵の紹介でドリュース博士に会っている。更に、博士が2
 回目の来日をした時にも、帝国ホテルのロビーで話をしたそうだ。
・天風は後年、学校にも行っていないのに「ベルリン大学」から「名誉
 哲学博士」の学位をもらったが、それはこのドリュース博士がくれた
 ものだと述懐している。
 《ドリュース博士は、経歴によれば「ベルリン大学」には在籍したこ
  とがないので、「ライプツィヒ大学」の間違いではないかと思われ
  る》
○結局、世界中探しても「心を強くする方法」は、誰も知っている人は
 いないという事実を改めて認識させられただけであった。この時に天
 風は、本当の失望、本当の落胆というものを味わった。
・失望した天風は、「俺は日本人だから、生まれた日本の土地で死のう
 世界に稀な富士山のある国、桜の咲く国で死のう」と決意した。その
 時の気持ちは、形容の出来ない孤独感というか、寂寞感というか、ま
 るで夜中にヒマラヤの山の頂に立たされたよりも、まだ寂しい気持ち
 だったと述懐している。
⑫1911年(明治44年、35歳)5月21日、2か年欧米を遍歴したが、心
 に何の希望もない魂の抜け殻となって、フランスのマルセイユ港から
 貨物船に乗り帰国の途に着いた。
・その貨物船は、サラ・ベルナールの従弟が船長をしている船だった。
 この船は、ペナンまでしか行かないので、ペナンで乗り換えて上海へ
 行く予定だった。
・ところが、スエズ運河でイタリアの軍艦が座礁していたために、エジ
 プトのアレクサンドリアで一週間ほど足止めされることになった。そ
 の間、貨物船の釜焚きの男に誘われてピラミッドを見に行くことにな
 り、カイロのホテルに宿泊する。
○そのカイロのホテルで、「ヨーガの聖者カリアッパ師」と運命的な出
 会いをすることになる。
・カリアッパ師は、イギリスの王室に招かれてヨーガの伝道に行った帰
 りだった。
・それは、その朝大きな喀血をしたばかりの午後であった。恐らく顔面
 蒼白、生きている人間か死んでいる人間か分からない位のやつれ方だ
 ったに違いない。「カリアッパ師」は、とにもかくにも俺について来
 い、お前の助かる道を教えてやる、と言葉をかけてくれた。その言葉
 を聞いて、形容の出来ない感動を受けた。そして言下に「サーテンリ
 ー」と言った。
○「カリアッパ師」に言われるままに、素直に後について行き、ヨーガ
 哲学の発祥地、ヒマラヤの第三番目のピーク(峯)・カンチェンジュ
 ンガの麓ゴルケ村で、約3年間ヨーガの修行をすることになる。
・その行程は、エジプトからアラビア海岸の著名な港に寄っては2、3
 日泊って行く。カラチから陸に上がって、曳舟とラクダの背中で行く
 目的地までは、約94、5日かかった。
・天風の心の中には、希望が炎と燃えていた。その間、我々の目的地は
 どこですかと尋ねたことはなかった。まったく生きる望みを持ってい
 なかったのに、助けてやる、助かることを教えてやると言われたから
 この人の力を頼りにするのは人間として当然だと思った。
・ところが、カリアッパ師の土地に入ってしまうと、主従以上の隔たり
 が出来てしまった。師は、その村落で最高の地位を持っているブラフ
 マン族であり、天風は最下級のスードラという奴隷である。奴隷は、
 馬、羊、豚や犬などの家畜のさらに下である。
・カリアッパ師は、王様でもこの人のそばに行くには膝を折らねばなら
 ないような人だ。インド人は、この人を垣間見るだけでも光栄だと思
 っている人が多い。有難いことには、そんな人が、2年数カ月ずっと
 傍についてくれていた。
○現地に着いてみると、1カ月経っても2カ月経っても教えようとはし
 てくれないので、その理由を尋ねた。すると、お前はまだ、本当に教
 わる準備が出来ていない。お前の心の中は、私の方が余計知っている
 私の霊感でそれが分かる。その証拠を見せるから、あの水を飲む器に
 水をいっぱい注いでこいと言われた。
・ちょうど魔法瓶みたいに、素焼きの二重になった丼が置いてある。そ
 れに水を一杯入れて持って来た。すると次に、湯をいっぱい持って来
 いと言われた。言われるままに湯を持ってきたら、その湯を水の上か
 ら注げと言われた。       (中村天風著作より適宜抽出)













 


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