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・中村天風先生は、1876年(明治9年)7月30日東京生れ 1968年(昭和43年)12月1日、92歳にて逝去。 ・墓所は、東京都文京区大塚の護国寺。 ・本名は、中村三郎。立花藩主(福岡県)の末裔。 ・幼名は、午の月、午の日、午の刻生まれにちなんで 「三午(さんご)」と名付けられた。「天風」という号は 家伝の剣術随変流の型「天つ風」から名付けられた。
<プロフィール 成人期・中期5> (5)成人期後期(41歳~60歳) ①38歳~43歳(1914年~1919年、大正3年~8年)、銀行頭取と四つ の会社役員に就任。 ○帰国後、銀行頭取と四つの会社役員に就任。 ・東京実業貯蔵銀行、伊豆電燈株式会社等の経営に携わり、事業は順調 に展開した。 ②42歳(1918年、大正7年)春。磐城炭鉱のストライキを調停。 ○それまでに、陸軍の大迫将軍や、日蓮宗の田中智学らが調停に行っ たが、鉄砲を撃ちかけられてどうすることもできなかった。 ・恩師の頭山から、「磐城炭鉱が騒ぎよる。おぬし行って鎮めてくれ」 と依頼された。 ・炭坑の入り口には橋がかかり、足を踏み入れたとたん、向こうの端か ら坑夫が鉄砲を撃つ。威嚇射撃である。外套の腰のあたりをブスッと 弾が貫いたが意に介さずに突き進んだ。 ・この時の気持ちは、女房や娘を売ってまでも炭鉱に立て籠もって、長 い間経営者と戦い続けている悲惨な労働者を救おうとやって来た自分 に、弾丸なんか当たってたまるか、当たるはずがないという「勇気が 煥発」された状況だった。だから、「虚心平気な気持ち」になれた。 ・橋を渡り切ると、坑夫たちに、「そこに積んである貯炭を売っちま え」と指示して、ストライキを収める。 ・この解決策に不満を持った経営者側は、背任罪で天風を訴えた。「こ ちらに任せると言った以上は、天風が何をしようと勝手じゃ」という 頭山の一言で、訴えは取り下げられた。 ▽炭鉱の経営者は、浅野総一郎。資本金として、浅野が約26%、渋沢 栄一が15%を出資し、この二人で全体の40%を超える。天風は、 [炭坑主は浅野総一郎、金は根津嘉一郎が出した」と語っているが、 根津 嘉一郎は出資していない。勘違いであろう。 (成功の実現) ③42歳(1918年、大正7年)、虎の檻に入る。 ・イタリアからコーンという猛獣使いが来日し、有楽町で猛獣のショー を開催した。 コーンはかねて頭山満のうわさを聞いており、イタリア大使館を通 して面談を求めてきた。 天風ら三人の者が頭山にしたがった。 ・コーンは、頭山に会うと、「猛獣の檻に入っても、あなたにはけっし て猛獣は襲いかかりません」と挨拶がてら言った。猛獣使いは人の 目を見て、その人の心が定まっているかどうかを判断するという。 ・さらに、天風を見て、「この方も大丈夫だ」とつけ加えた。コーンに 案内された楽屋で、檻のなかから虎が三頭、低い唸り声を上げた。 まだ馴らしている途上だと言う。 ・頭山先生がニッコリ笑ってね、「勢いのあるやっちゃなあ。天風、い っちょう入ってみるか」と、こう言ったんであります。(中略)そ れでスーッと私、なかへ入っちゃったんだ。二重になってるんです、 虎の檻っていうのはね。 ・天風が虎の檻に近寄ると、コーンは二重扉を順に開けた。虎は、天風 の周りに寄ると、二頭がうずくまり、一頭が後ろにいた。新聞記者 がフラッシュをたいて写真を撮ると、虎が牙を剥く。 ・このときの写真が新聞に掲載された。天風は、猛獣がなつくのは「霊 的作用の感化」で、「すべての雰囲気をスーッと同じ状態にしちま う」からだと語っている。 (盛大な人生) ◇間もなく大きな転機が訪れる。 ・妻ヨシから、知り合いの人が神経衰弱になって苦しんでいるから、イ ンドでの経験を話して欲しいと依頼され、自宅で講和の集まりのよ うなものを催すようになる。 ④43歳(1919年、大正8年)5月31日、講演の最中にインスピレーシ ョンが閃く。 ・日蓮宗の田中智学と大迫大将兄弟が「大日本救世団」という宗教団体 を作り木挽町の歌舞伎座で発団式を行ったが、その時に頼まれて講 演をする。 ・その講演の最中に、「こりゃいけねぇ、この人間たちを救わなけれ ば」という天の啓示とも言うべきインスピレーションが閃く。 ・それで、恩師である頭山満に相談し、わずか一週間の間に実業界の職 を辞し財産を処分する。 ⑤43歳(1919年、大正8年)6月8日「統一哲医学会」を創設。 ・腰におにぎりを下げ、街頭にて心身統一法を説き始める。 ・午前中は、上野公園精養軒の前の石の上に立ち、午後は、芝の増上寺 の前で説法を行った。 ・天風の説法に感銘を受けたのが、天皇の諮問奉答者・向井巌だった。 向井は、日本工業倶楽部での講演に招聘した。向井の紹介で、原敬を 始め政財界の人達が話を聞いた。 ⑥47歳(1923年、大正12年)、司法大臣・横田千之助の紹介で韓国・ 京城に支部を開設。 ⑦48歳(1924年、大正13年)、司法大臣・横田千之助の助力により大 阪に支部を開設。 ⑧48歳(1924年、大正13年)、東久邇宮、北白川宮、武田宮の3内親 王へご進講をする。 天風は、その引き出物をもって頭山満宅へ報告に伺った。 ⑨49歳(1925年、大正14年)5月18日、尾崎幸雄別邸で講演会。 ・尾崎幸雄別邸で行われた講演会には、小松輝久侯爵、後藤新平、岡田 啓介(首相)、浅野総一郎、歌人の九條武子などが集まった。 ・尾崎幸雄(文相、東京市長)は、1920年以来、統一哲医学会の会員 として天風の活動を支えた。 ・その後、統一哲医学会は発展し、政財界の実力者も数多く入会するよ うになる。 ⑩56歳(1932年、昭和7年)、天風の活躍を描いた新国劇「満洲秘 聞」が京都南座で上演。 ・新国劇で軍事探偵の天風の活躍を描いた「満洲秘聞」が京都南座で上 演さる。 戦後もテレビや演劇で活躍した島田省吾が天風役。 原作は、天風の弟・祐雄(筆名・浦路耕之介)が書いた「ある特務員 の話世界密偵秘話」(博文館、1931年、昭和6年)である。 (中村天風の著作より適宜抽出)
<プロフィール 老年期> ①1940年(昭和15年、64歳)、統一哲医学会を天風会に改称する。 ・天風は動物を愛し、自宅ではエスキモー犬ロングと秋田犬マル号を飼 っていた。 ・天風は、大正15年から皇族講演の講師を拝命していたので、宮内庁 や皇宮警察などへも定期的に講演に出かけた。 ・天風は、どんな時にもいかに生きるかを説き、たとえ軍人相手でも、 いかに死ぬかを説くことはなかった。 ○1942年(昭和17年、66歳) この時期、天風は、憲兵に監視されて いる状態だった。 ・天風の講演について、天風会初代理事長・平林正治は、「戦争をやっ て勝て勝てというより、平和という言葉がたくさん出てくるので平和 主義者だということを誰かが言い出して、自分も警視庁に呼び出され た」と語っている。 ②1945年(昭和20年、69歳)3月、陸軍の特別強制疎開という命令に より天風の自宅のみ強制取り壊しとなったため茨城県利根町布川の野 田家へ疎開する。 ③1947年(昭和22年、71歳)3月、「真人生の探究」出版。 ④1947年(昭和22年、71歳)10月23日、東京丸の内の毎日新聞・地 下ホールでGHQの最高幹部達に講演。 ・講演終了後、ロックフェラーから招聘を受けるが承諾しなかった。後 日、手紙で再度米国に来るよう要請があったがそれも断った。 ⑤1948年(昭和23年、72歳)4月、「研心抄」出版。 ○1948年 疎開先から戻り、自宅のあった文京区西片1丁目に再び居 を構える。 ⑥1949年(昭和24年、73歳)4月、「錬身抄」出版。 ○1949年 護国寺の月光殿を定期的に借りられるようになり、講習会 や夏季修練会を開催するようになる。 ・天風は、夏季修練会の期間中頼まれるままに揮毫した。そのため、墨 をする係が常に側にいた。 墨をする係の者は、墨のすり方ひとつにも心のあり方が現れるので、 これも行修のうちと思い気が抜けなかったという。 ⑤1962年(昭和37年、86歳)、私財を投じて「財団法人」を設立する ・同年、護国寺山門の隣の建物を買収し「天風会館」とする。 ⑧1968年(昭和43年、92歳)4月、地下1階、地上5階建ての「新天風 会館」完成。 ・天風会館完成を目前にした講演の中で、「心身統一法という天風哲学 を自分以上に熱心に実践した人間はいない。また、だからこそ自分以 上に人の心に深く伝えられる人間もいない。従って、天風に二代目は いないのだから、これから先は天風会館を、自ら一人ひとりが心身統 一法を学ぶ教えの殿堂として行ってほしい」と語っている。 ⑨1968年(昭和43年)12月1日、92歳にて逝去。 ・12月7日葬儀。葬儀の祭壇は、天風自身が死の直前に指示した図をも とに、富士山をイメージして作られ、白菊の花で埋められたその中央 に遺影が置かれた。また、壇上には「天風哲人」の文字が掲げられた ・墓所は、東京都文京区大塚の護国寺。 ・墓碑には、天風愛誦の偈が刻まれた。「先天一気即霊源 無作為而行 自然 人生亦此制疇中 一切還元帰大霊」 一千九百六十二年春日 心身統一法創祖 天風哲人 ・50年、ひたすら心身統一法の普及に努めた。どんなに仕事が忙しく ても「忙しい」という言葉は決して口にしなかった。また、晩年にな っても、昼間ちょっと横になるというようなことは決してなかった。 ・天風は、師についたことはなかったが書画をよくし、また仏像や動物 や根付きパイプなどを彫ったり自分の入れ歯までも作った。精神が統 一されて心を使いこなせるようになると、書画をはじめ、スポーツだ ろうが武術だろうが、本質を捉えることが出来るようになり、何事に も上達するものであると述べている。 ・日常は、ほとんど和服で過ごしていた。江戸っ子気質の洒落っけで、 羽織の裏などの目立たないところに凝り、自分で描いた絵を染めさせ た。 ・天風は、タイプライターを愛用したが、来客と話しながらブライン ド・タッチで打つことが出来たので、来客が驚いたという。 ○天風財団常任顧問 元人事院総裁 内海倫の言葉。 『天風先生は、秋霜烈日の厳しい人と思われがちだが、実は慈父という 言葉がそのまま当てはまるような大きな人間愛に満ちていて、その人 柄を知れば知るほど、誰もが思慕を感ずるようになる。さらに、その 人間像に「暴れん坊が大人になった」という少年の心を感じるし、そ れでいながら何もかも知り尽くした「粋人」というものも感じる。言 葉も、江戸前の歯切れのよいのが天風先生の本来の言葉だが、話の内 容によっては関西や九州の言葉遣いが出てくる。天風先生の人間的な ところがいろいろな形で滲み出て、それが話を聞く人を魅了するとと もに、天風哲学の理解に大いに役立っていたのではないかと思う』 (図説 中村天風) ⑩1970年(昭和45年)、宇野千代著「天風先生座談」発行。 ⑪2011年(平成23年)、天風会が財団法人から公益財団法人となる。 完了 (天風著作より適宜抽出)
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