中村天風研究会

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中村天風先生プロフィール

・中村天風先生は、1876年(明治9年)7月30日東京生れ
 1968年(昭和43年)12月1日、92歳にて逝去。
・墓所は、東京都文京区大塚の護国寺。
・本名は、中村三郎。福岡柳川藩主の末裔。
・幼名は、午の年、午の日、午の刻生まれにちなんで
 「三午(さんご)」と名付けられた。「天風」という号は
 家伝の剣術随変流の型「天つ風」から名付けられた。

 <プロフィール その2>
・天風先生を一言で紹介すれば、日本人で初めて、ヨーガの修行によっ
 て悟りを開かれた方である。 
・それは、直観力によって「宇宙の真理」を会得されただけではなく、
 不思議な「超能力」を発揮された。    
・難行苦行すると、「宇宙の真理」を会得するだけでなく、いわゆる
 「超能力」も身に付けることが出来ると言われている。 
・仏教でも「神通力」といって、仏教の修行をすると六つの超能力を発
 揮できると言われている。
・天風先生も、その「超能力」を会得されているので、その話を少し紹
 介したい。
・先ず、「予知能力」と言われるもので、天風先生は、明日の競馬でど
 の馬が勝つかとか、明日の天気は晴れか曇りかといったことが分かっ
 たという。もちろん、競馬はされなかったようだが。
・次に、「透視能力」、まだ超音波検査が出来なかった時代に、妊娠し
 ている人のお腹を服の上から見て、その赤ちゃんが男か女かが分かっ
 たと述べられている。
・3つ目は、「テレパシー」、目の前にいる人の心が読めた。すなわち
 その人の考えていることが分かった。
・4つ目は、「千里眼」、医者に見放された病の人が、助かるかどうか
 がわかった。助からない場合には、その人の亡くなる日や時間まで分
 かったそうだ。
・5つ目は、「念力」、夏に行われた修練会で、天風会会員の腕に五寸
 釘を打つというデモンストレーションをされた。五寸釘を打たれた人
 は、腕が豆腐のように感じられて、釘がスーッと腕の中に入って行き
 痛みもなく、血も出なかったということだ。
・このような超能力は、現代では「ESP」(超感覚的知覚)や「PK」
 と呼ばれて科学的な研究が進められている。そして、この能力は、特
 別な人だけに備わっているものではなく、すべての人間に備わってい
 る能力であることも分かっている。
・以上が、天風先生の「超能力」に関する話である。
・天風先生との直接の関連はないが、「宇宙真理」に関する話を一つ紹
 介したい。日本には、昔から「お天道様」という言葉がある。これは
 「太陽を敬い親しんでいう言葉」として理解されている。 
・そして、「人が見ていなくても、お天道様が見ているから、悪いこと
 をすればすぐばれる」と自分たちの行動を戒めた。これは、一般庶民
 向けに分かりやすく説かれた「宇宙真理」である。
・本来の意味は、「天」とは、人を超えた存在であり、天地万物の支配
 者を表す。「道」とは、宇宙の普遍的法則。 その法則によって我々
 人間は、一定の方向に導かれていることを忘れてはならない。 
・とにかく、日本人は、昔から、目に見えない不思議なものを感じる能
 力を持っていた。 
・それで、昔の人は、朝、目が覚めると、東の空に向かって手を合わせ
 た。手を合わせるというのは、天に感謝したのだ。「自分は、今日も
 活かされて生きている」ことに感謝したのだ。
・こういう昔からの日本人の行いが、戦後の日本の繁栄を導いたという
 ことが出来るであろう。 
・翻って、「今日の日本人の行いはどうか」ということは、各人が反省
 しなければいけないことである。
・特に今の日本には、誰も見ていないから、自分勝手なことをしても誰
 も咎めないだろうと、言いたい放題、やりたい放題の人間が多過ぎは
 しないか。

 <プロフィール その1>
・中村天風先生を一言で表現すれば、「日本人初のヨーガ体得者」とい
 うことが出来る。ヨーガ体得者とは、ヨーガの修行によって悟りを得
 た人という意味。また、「人生哲学の第一人者」ということも出来る
・その他の肩書は、天風会創始者、心身統一法普及者、思想家、実業
 家、自己啓発講演家、孫文の顧問、玄洋社社員、大日本帝国陸軍諜報
 員等が挙げられる。
・30歳の時に、当時不治の病と言われた奔馬性肺結核に罹り、細菌学
 の権威・北里柴三郎博士から余命宣告を受ける。
 これまでは、軍事探偵として死をも恐れぬ活躍をしていたが、余命宣
 告を受けて、急に自分でもビックリするくらい心が弱くなった。それ
 で、以前のように強い心を取り戻したいとの思いから、求道の道を歩
 み始める。
・先ず、日本の著名な思想家、医学者等を尋ねてまわったが、誰もその
 問いに答えられる人はいなかった。ある時、たまたま目にしたオリソ
 ン・スウェット・マーデンの『如何にして希望を達し得るか』を読ん
 で感銘を受け、アメリカへ渡る決意をする。
・1909年(明治42年)春、横浜から貨物船にて渡米。オリソン・ス
 ウェット・マーデンと面談したが、ほとんど相手にされなかった。そ
 れで、もっと他の世界的な権威に会えば問題が解決できるに違いない
 との思いから、意を決して西欧へ渡る。
・西欧では、イギリスのH・アデントン・ブリュース博士や、フランス
 のリンドラー博士、ドイツのハンス・ドリュース博士等を歴訪した
 が、いずれも納得のいく回答を得ることは出来なかった。結局、心を
 強くする方法は、世界中を探しても誰も知っている人はいないという
 事実を改めて認識させられただけであった。
 失望した天風先生は、同じ死ぬのなら故国である日本で死のうと、帰
 国することを決意する。
・1911年(明治44年)5月21日、心に何の希望もない魂の抜け殻とな
 って、フランスのマルセイユ港から貨物船に乗り帰国の途に着いた。
 ところが、スエズ運河でイタリアの軍艦が座礁していたために、エジ
 プトのアレクサンドリアで一週間ほど足止めされることになった。そ
 の間、誘われてピラミッドを見に行くことになり、カイロのホテルに
 宿泊する。
・不思議なことには、このホテルで運命的な出会いが待っていた。ヨー
 ガの聖者カリアッパ師との邂逅である。天風先生は、カリアッパ師に
 言われるままに、素直に後について行き、ヒマラヤ第三峯・カンチェ
 ンジュンガの麓、ゴルケ村でヨーガの修行をされることになる。
・天風先生は後に、カリアッパ師との出会いは、何か大きなある偉大な
 力が働いていたとしか思えないと述懐されている。
・1913年(大正2年)、ついに悟りを開くと共に病をも克服し、帰国
 の途に着く。
・帰国後は、東京実業貯蔵銀行、伊豆電燈株式会社等の経営に携わり、
 事業は順調に展開した。ところが、間もなく大きな転機が訪れる。
・1919年(大正8年)5月31日、日蓮宗の田中智学と大迫大将兄弟が
 「大日本救世団」という宗教団体を作り木挽町の歌舞伎座で発団式を
 行ったが、その時に頼まれて講演をする。
 その講演の最中に、「こりゃいけねぇ、この人間たちを救わなけれ
 ば」という天の啓示とも言うべきインスピレーションが閃く。
・それで、恩師である頭山満に相談した上で、一週間の間に実業界の職
 を辞し財産を処分する。6月8日に「統一哲医学会」を創設し、街頭
 にて心身統一法を説き始める。
 その後、統一哲医学会は発展し、政財界の実力者も数多く入会するよ
 うになる。
・1940年(昭和15年)、「統一哲医学会」を「天風会」に改称。
 以上


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