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はじめに 建国と殖産興業という明治の激動の時代が終わり、平和な大正時代を経て昭和期を迎える頃になると、それまでは海運が主体であった交通・運輸は鉄道輸送にその主導権を奪われ、その結果、全国の地方港から活気が失われていった。 そんな全国的な変化の波は、横浜・神戸に次ぐ我が国第三番目の開港場という歴史的由緒を持つ武豊港にも押し寄せ、さらに、武豊港とともに隆盛を誇ってきた衣ヶ浦西岸の半田港・亀崎港にも大きな影響を及ぼし始めた。さらに、埠頭や桟橋の賑わいに秋風が立ち始めるとともに、いっときは愛知県、尾張地方の産業革命の一角を担っていた当地の産業にも翳りが見られるようになった。
我が国のそんな趨勢に、1929(昭和4)の米国における株価の大暴落に始まる世界大恐慌の大嵐が加わり、経済の停滞による不景気は慢性化し始めていた。そういった停滞を克服し、経済の全国的な流れから取り残されないための方策の一つとして、古くから経済的な潜在力を持つ半田・亀崎・成岩の三町が合併して新しい行政組織を作ることが有識者の間で考えられてきた。 ところが、三町の近世村としての生い立ちの違いや、旧村時代から続く町の間の軋轢等もあって三町の利害はなかなか一致せず、合併による新しい市の誕生はなかなか実現しなかった。 しかし、そのような障害を苦にせず、ひたすら新しい市の誕生を願った進歩的な人々の努力によって、昭和12年10月1日、遂に半田市が産声を上げたのである。 これは愛知県としては名古屋市、豊橋市、岡崎市、一宮市、瀬戸市に次ぐ第六番めの市制施行であり、知多郡の官民にとっては宿願のめでたい出来事であった。
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